東京の平日の朝 人々がモノとして運搬される日常
東京の平日の朝は、見ず知らずの人間が老若男女を問わず、ぎゅうぎゅうにくっつき合います。かえって知らない人同士だから遠慮がないのでしょう。
今日は30分くらい出社が遅れました。事故で電車が遅れたからです。でも電車自体の到着が30分遅れたわけではありません。電車が目の前に停車してドアも目の前にあるのに、乗れないのです。もはやどんなに押しても、物理的に入る余地がないのです。何本かを過ごしてなんとか乗り込んだと思ったら、次の駅でまた乗れないのです。東京の平日の朝の、わずか数分の電車の遅れは、みるみる遅延の悪循環に陥ります。ホームは人であふれます。「下がってください」「すいたドアから入ってください」駅員さんのアナウンスは空しく霧散します。下がる空間も、すいているドアもないのです。
最近、毎週月曜にNHKで放送されている「家族に乾杯」(鶴平さんが出ている)を観ることが多くなりました。(以前はそもそもそんな時間には帰宅していなかった)
あの番組を観ると、田舎とは何と人が少ないのかと思います。
今日の朝に「みかけた」人間は果たして何人になるのか…。もしかすると駅にあふれる人々は、お互いを「人間」とは見なしていないのかも知れません。
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コメント
明らかに、東京では、他人は人間とは見ていません。
社会的距離だったかな。パーソナルスペースというものがあって、見ず知らずだったら1.2m,知っている人なら50cm,大好きなら0cmというのが開けるべき距離です。(数値、うろ覚えすぎ。誰か訂正して~。) それを超えて接近されると、精神的ストレスが発生します。もちろん、東海道線でも中央線でも東西線でも日比谷線でもそんなスペースはとれるわけがありません。
よって、「人間として」精神を保つためには、自分の周りの「存在」を「人間ではないモノ」として処理・認識するしかありません。
そんな、社会は、ゆがんでて、だからこそ、他人を思いやる気持ちのないひとたちがふえていって、いろいろと嫌な事件が起こっていくのだろうけれど。
私たちは、精神が病になってしまっていますけれど、普通のひとたちだって、立派に壊れているのだと思います。
投稿: くりにゃー | 2007年2月10日 (土) 07時12分