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2009年4月11日 (土)

FW: 生きてさえいれば

 僕としては珍しいけれど、ある記事の紹介。

 生きてさえいれば

 先日、会社で昼休みに、たまたま読んだ記事だ。

 少なくとも残される家族や友人・知人にとっては、それこそ負の連鎖を引き起こしかねないほどの深刻な傷を負わされることになるのだろう…。

 世の中がどうの…とは言いたくはないけれど、それでもいろいろと考えてしまう記事だと思った。

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コメント

だとしても、その人には、その道しかなかったんじゃないかと思う。
生きていて、何かいいことがあるのか?
これ以上、この苦しみを背負ったまま生き続けることなんて出来るのか。というかこの苦しみ、終わることがあるのか。
このまま一生苦しみと共に生き続けなければならないのか。
と感じたら、終わりにしよう、という決断を下すのもその人の考えかたなんじゃないかと思う。
「楽になる」
その通りなんだけれど、それは、今がとてつもなく苦しいからで、その苦しみが永遠に感じられるからだと思う。
確かに遺されたものは悲しむし苦しむだろうけれど、だからといって、回りのものが自分の苦しみを負担してくれるわけでもないだろう。自分の苦しみに対して何もしてくれないものに対して、何か義理立てする必要があるのか?
回りのこれからの苦しみよりも、自分の今の苦しみのほうが強い・変わらないと感じたら、そういう選択も有りだろうと思う。
どっちに行っても誰かが苦しむなら、自分は楽になりたい、という選択はあってもいいと思う。
それくらいに追い込まれているのだ、ということを回りのものは知るべきだと思う。

理想としては、そういう状況にあるのだ・そういう選択をせざるをえないのだ、ということを回りに知らせて、回りに苦しみの負担を解消してもらうように働きかけるべきなんだけれど。
ただ逝く人って、回りに負担をかけさせたくない人がほとんどだから、自分一人で背負い込んで自分一人で煮詰まるんだよね。
結局、性格の問題なんじゃないかな、と思うのですけれど。
このケースでも、回りからはヒーローとして見えている自立した自分一人でなんでも背負っちゃう人みたいだし。だから背負い込んだ物が大きすぎるとき折れるのだと思う。
もともといい加減に生きて、いい加減に人に放り投げるような悪い性格の人間なら、折れなくて済んだんだろうけれど。
自殺はいけないことかもしれないけれど、それを選択するにはちゃんと理由があるのだ、ということは理解したいと思う。
そして逝った人が楽になったことは認めて上げたいと思う。認めたくないけれどね。認めて上げないとその選択自体を否定しなければならないし、そうなるとその人自体を否定しなければならなくなるし。

投稿: くりにゃー | 2009年4月11日 (土) 12時04分

こんばんは。

20年ほど前に、海岸で亡くなった友人を思い出しました…。

投稿: bjg | 2009年4月11日 (土) 18時00分

先日私の会社で36歳の方が亡くなった。
自分はそんなに面識がなかったがつい最近元気な姿を見たという人が何人かいた。自殺?病気?詮索はしないけれど年下の人が亡くなるたびに哀れを感じる。
心痛で亡くなる方が無くなりますように心から願う今日この頃。

投稿: たかでんです。 | 2009年4月11日 (土) 20時31分

おはようございます。

私がかつていた職場は、全国で年間約20名の同僚が自殺を図る環境です。私はリタイヤさせてもらいましたが、その職場には“リタイヤ自体が悪である”という価値基準があって、リタイヤできずに自殺に追い込まれた方が随分いたように思います。
私が共に仕事をした方も数年前に、私の同級生の夫も2年前に自殺しています。

逃げてもいい、という選択は大切なものです。

基本的に、相手が自分に対して殺意を抱いているような戦場や、自分が誰かの命を救うために投げ打つような現場でない限り、仕事に命まで掛けさせる理由などない、と思っています・・・仕事中毒な私でも。

この記事の男性が、誠実に生きようとする努力を自分の身の回りの小さな枠の中で否定された時、自殺ではなく違う社会のステージへ思い切って脱出する選択もあったようには思えます。

かくいう私も未遂があるし、身内にも失踪した者がいたりと、この手の話題には敏感に反応してしまいます。
その都度思う事は、世の中は一つではないということ。
水の合う場所を探し当てられたら幸運ですね。

自殺をした人が弱いとか愚かだとか、そういう目で見る人がいますが、死のうとするエネルギーは、生きようとするエネルギーより大きいものが必要です(私の体験では)。ですから、その選択の是非はどうであれ、亡くなられた方に対しての畏敬は失してはならないと、私は思います。

投稿: 靴底 | 2009年4月12日 (日) 07時27分

うん.読んだ読んだ.
重いな.
生きるのは辛いからな.
コメントは後で読もうと思って.先に書いているんだ.

投稿: HAWK2700 | 2009年4月12日 (日) 14時21分

皆さまコメントありがとう。
m(_ _)m

 皆さまのコメントを拝読して、改めて自ら命を絶つことを選択する人が、本当に身近に居るのだと、そう感じました。

 僕もそういうことを考えたくなることが日常的にあります。残される人々の悲しみは本当に甚大であり、あまりにも残酷な現実となってしまいますが、それでも、ただそれだけを理由に、自殺を思いとどまらせることは、なかなか厳しいのではないかと思います。

 上記のコメントでもいただきましたが、「自殺に至ってしまうには相応の理由がある」と僕も思うからです。
 また、「生きようとするエネルギーよりも死のうとするエネルギーの方が大きい」「畏敬は失してはならない」とのお言葉をいただきましたが、確かにおっしゃるとおりだと僕も感じます。

 正直、僕のココロの中でも日々刻々と考えが変わります。「自殺は絶対に許されざる行為だ」「いや、自分の命は唯一自分が自由にできるものだ」等など…。

 でも、少なくとも、知っている誰かに自殺されたくはないと、切に願う気持ちはあります。エゴかもしれませんけれど…。

投稿: あゆざかけい | 2009年4月12日 (日) 15時37分

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