カテゴリー「育児」の4件の記事

2007年1月29日 (月)

僕の場合:教育や学歴について思うこと

 とある記事を読ませていただいて、自分なりに思うところがあったので書いてみます。人に押し付ける気はないので、特にリンクやトラックバックはしません。親になったこともない僕の考えですので、甘いと言われる方も居るかもしれません。そのときはどうかご容赦ください。

 子を持つ親にとって、お子様の教育の問題はとても大事なことだと思います。悩む方も多いと思います。ご家庭の独特な雰囲気や、親戚の特質、そして自分の子供と同じ年頃の子供を持つ他の家庭の動き…などから、「自分の子供も(周りに負けないように)良い人間に育てなければ」とプレッシャーを感じることもあると思います。それは当然のことで、それだけ子供のことを考えているということだと思います。
 でも、そういうときほど、深呼吸して、もう少し広く考えようとしてみて欲しいと、僕は思います。もしも、周りを気にするあまり、子供本人の気持ちや、親から感じ取っている子供のプレッシャーなどが見えなくなってしまうと、いろんなことが裏目に出てしまうと思うからです。子供は何も言わなくても、親からの期待を敏感に感じ取るものだと思います。子供は親とは違う独立した人格であり、決して親の成果物ではないことを、深呼吸して、思い出してください。

 僕の場合は、ちょっとだけ特殊な家庭の事情があって、父親に育ててもらったようなものでした。父なりに思うところはあったと思いますが、決して頭ごなしに「勉強しなさい」とか「いい学校に入りなさい」とか、そういうことは言わない人でした。今思うと、そういう親の理解が、自分にとって、とても重要だったと思います。

 僕は小学校5年生くらいのとき、自分から「塾に行かせてくれ」と希望しました。その甲斐があって、小学校の終わり頃には、学校の授業の内容はとても簡単にわかるようになりました。中学校でもそれは同じで、家でほとんど勉強しないにも関わらず、学年で300名くらい居るなかで常に30位以内くらいでした。親も成績が好ましいことを喜んでくれるので、高校受験もそれなりに頑張って、都立の進学校に進みました。
 中学時代は成績が良かったほかに、陸上競技の成績もよく、学級委員などもやって、いわゆる「優等生」でした。それは自分にとっては、必ずしも楽しいことばかりではありませんでした。偏差値が高い学校に進めば「ばら色の高校生活が待っている」などと幻想を抱きました。
 しかし実際には違いました。進んだ高校では、ひたすら大学入試を目指すだけの厳しい授業が待っていただけでした。僕らは世代的に人数も多く、受験競争が過熱していました。高校へは行きたくなくなりました。はっきり言って、進む学校を間違えたと思いました。
 それでも僕は、自分の進路はそれなりに自分で選んだ、と思っています。だからこそ、自分なりの納得を得られるのだと思います。そして、そんな僕を見守ってくれた父の存在も大きかったです。もしも、どん底の高校時代に、親に自分を否定されるようなことがあったら、僕はどうなっていたかわかりません。

 学歴や学力の問題はとてもナイーブで、答えもひとつではないと思います。でも、どんなときでも子供の気持ちを無視してはいけないと、それだけは思います。そして、どんな場合でも、最後には子供を受け入れてあげること。それがとても大切なことだと思うのです。

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2006年12月 8日 (金)

自分の一番の教師は自分である。

 世間では教育というキーワードに関心が高まっている。僕は教育者でもなければ子育ての経験も無い未熟者である。そんな僕にもこのキーワードについて語る言葉が少しだけある。僕は常々、こう考えている。

 自分の一番の教師は自分である。

 無論、いい歳をして未だに親の世話になっているし、これまでにも学校の先生や会社の先輩などに、実に様々なことを教わり、影響を受けてきた。この方々のおかげでいまの自分が居ることは疑いようもない。それでもだ。それでも、自分の一番の教師は自分なのである。

 仕事柄、言葉遣いがコンピュータ用語に近くなってしまうけれど、自分なりの確信を持って僕は言う。

 人は入力だけではほとんど何も覚えられない。人は自ら出力することで様々なことをはじめて覚える。

 百回、他人から何かの入力を受けたとしても、たった一回、自ら出力したことの方が、自分にとってははるかに記憶に残る。理解もできる。

 これは何も、学力だとか、そんな表面的なものだけを言っているのではない。人生経験や教訓など、自らの失敗から学ぶことがいかに多いか、そして成功体験がどれだけ自信になったか。

 ……。

 ふとこんなことを思いました。今日の活動記録は長くなりそうなので明日以降に書く、かもしれない。

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2006年9月 7日 (木)

子供を親の代理競争に使うの?:返信に代えて

 昨日の記事の返信に代えて。

 柄にもなく、教育に関することを書いてしまいました。僕はいい歳して独身で、子育てなどしたこともないくせに…と自分でも思いながら。昨日はあのように申し上げましたが、もしも僕が親になることがあったなら、やはり時代の潮流には逆らえないでしょう。自分の子供の将来を考え、できうる限りのよい教育を与えてやりたい。それは親として当然のことだと思います。

 僕は…いうなれば、漠然と「未来」に対して「不安」と「憂い」を持っている…それだけなのです。

 昨日の記事では触れませんでしたが、「中央公論」9月号の特集記事の中には、いまの流れの中で育った世代が、将来の日本の指導者となることへの一抹の不安が書いてありました。ここで言ういまの流れとは、教育における格差を当然のものと認識し、自らも同じような階層(教育における階層)の人間としか交わらない、ということを指します。

 僕の子供世代とは違い、いまは普通にインターネットなど、時間と距離を越えたコミュニケーションが可能となりました。(「ウェブ進化論」でいうところの「チープ革命」) しかし、その珠玉混合の膨大な情報を手に入れるにはパソコンなどの最低限の環境を得ていることが前提となり、やはりその部分でも「持つもの」「持たざるもの」が発生します。そしていまのネットという仮想空間には、あるときはとても醜悪に映りますが、その人間の本性というか本音が含まれています。(某巨大匿名掲示板など)

 それらを目にすると近年の子供や若者に明らかな階層意識が生まれている印象を持ちます。現に、近年の新卒で会社に入る人の中には、上司や先輩から仕事を頼まれても「嫌です」と平然と断る者が少なくないそうです。階層意識にもいろいろあると思いますが、多いのは「学歴」です。「あの上司は高卒だから自分よりも劣る人間だ。そんな人の下では働きたくない」という、昔なら冗談としか思えないことを、結構本気で思っている人が居るようなのです。

 昨日の記事でも言いましたが、僕は子供が自分の意思で(それが親が誘導したものであっても)いろんなことを決めたのであれば、それを尊重すべきですし、大多数の子供はそうであろうと思います。ただ、一部メディアによって誇張されている傾向もあるようですが、親自身が「選民意識」を持ち、その歪みを自分の子供でさらに強くする…。一握りの人々かもしれませんが、そんな親子も居ると思うのです。

 あらゆる場面における「格差」「階層化」は、なかなかとまらないと思います。個人的にはとても嫌ですが…。でも、ならばせめて次世代のリーダーとなる人たちには、歪んだ選民意識は持って欲しくないのです。そういう人が上に立つ社会に、僕は「恐怖」さえ感じるのです。そして、いまの親たちには、子供にそういう歪みとは正反対のバランスのよさを持たせて欲しい。そんなことを思ったわけです。

 どうか少しでも未来が明るくなりますように…。

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2006年9月 6日 (水)

子供を親の代理競争に使うの?

 先ほど図書館で「中央公論」9月号を読んできた。読んだといっても流し読みであるが…。特集記事は「親力」がどうとか「加熱する中学受験」だとか、そんなキーワードだった。もうひとつの特集記事「睡眠障害」も気に惹かれ、手に取った。
 「格差」という言葉がいろいろな場面で使われだして久しい。そのひとつに「教育格差」がある。小学校も3年生くらいから塾へ通わせ、私立の学校に受験させる親が多いのだそうだ。「学級崩壊」だとか「学力低下」だとか、そういう諸問題は、公立学校でより顕著だと思われているらしい。今の親たちは公立教育機関(中学・高校)を疎んじる傾向があるそうだ。疎んじるというより信用されてないのだろう。私立学校に通わせるには一人当たり年間150万円くらいかかる。それだけかけても、できるだけ親たちは私立学校に通わせたいらしい。特に親自身がいわゆる「高学歴」で職業も「高級官僚」「教師」「医師」などである場合、近年では父親の方が子供の教育に熱心で、なかには「暴力」的な脅迫さえ行い、子供を指導するという…。
 先に関西地方の有名進学校に通う生徒が父親からの「教育的指導」に不満を覚え家に放火する事件があったが、それを思い浮かべた。

 僕は第2次ベビーブーム世代で「受験戦争」を経験している。いまの高校生には信じられないかもしれないが、いわゆる「日東駒専」クラス(ああ嫌な言葉だなぁ)でも、相当勉強しないと入れなかった。
 結果して僕は高校こそ、そこそこの進学校(公立)に進んだが、高校時代の学科成績は惨憺たるもので、本人の努力もなかったため、大学には行っていない。ステータスとしての学歴は決していいものではないだろう。でも、自分の学歴の問題を親のせいにしたことはない。どんな理由があるにせよ自分が選んだことだ。

 僕の世代が子供だった頃にも「教育ママ」という言葉はあった。そして、仕事ばかりで子育てには無関心な父親が「まあそんなに堅いことを言うな」と無責任に母親をなだめる光景が多くの家庭にはあっただろう。母親からすれば「もっと子育てに参加してよ」と文句もあったろうが、ある意味でバランスが取れていた気がする。たまにしか話さない父親からは「社会」をいろいろ学ぶことができたからだ。

 僕は教育問題には疎い。もう中学生の子供が居てもおかしくない年齢ではあるが…。そんな僕が言うのもおこがましいのかもしれないが、言いたい。
 親は親、子供は子供。子供は親から離れてゆくのが普通なのだ。(むしろ、僕のようにこの歳で親と同居している方がおかしいのかもしれない)
 そして子供には自我がある。子供の意思を無視した代理競争ならやめておけ、と…。僕の記憶が正しければ、人には「学びたい」と思う時がやってくる。本当の勉強は本人がそういう意欲を持っていなければならない。それが小学生のうちなのか、中学なのか高校なのか、あるいはもっと先か…。それはわからないけれど…。
 きれいごとかな?

 まあ、確かに、「受験戦争」を経験したからこそ、「中高一貫」で楽をさせたいという親心もあるのだろう。思えば、「いまの親たち」は、僕とそう違わない世代だし…。

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